■ 「お墓がある」ことが当たり前だった私
私は埼玉県出身です。
母方の祖父が建ててくれたお墓が新座市にあり、幼いころから夏休みになると、お盆のお墓参りは毎年のようにしてきました。母と一緒に線香をあげ、手を合わせ、蝉の声とともに立ちのぼる煙。その情景は、いまでもはっきり思い出せます。私にとって「お墓参り」は、家族と一緒に行う大切な夏の行事であり、帰省の象徴でもありました。
そんな私が、今、悩んでいます。「自分は、どこに入るんだろう」と。
■ 家族ができて、距離ができた
大阪に就職し、妻と出会い、息子が生まれました。 今は大阪に家を買い、もう埼玉に戻る予定はありません。仕事も家庭も、大阪を中心に回っています。
一方で、埼玉の新座霊園にあるお墓は、今も変わらずそこにあります。 私の両親がそのお墓に入ることは、きっともう決まっている。でも、私は?
私の息子は、どこに向かって手を合わせてくれるんだろう。
埼玉と大阪。距離は遠く、気持ちも少しずつ離れていくような気がして、心のどこかがギュッと締めつけられるような感覚があります。
■ 「分骨」という選択肢
私は葬祭ディレクターとして、たくさんの人を見送ってきました。 そのなかで、「分骨」という選択をするご家族にも、たくさん出会ってきました。
・一部は実家のお墓に納める ・一部は自宅で手元供養をする
そうすることで、「離れて暮らしていても、気持ちは近くにある」と感じる人も多いのです。
実際、私は今、父や母が亡くなったときは「分骨してもらおうかな」と思っています。 埼玉のお墓に納めつつ、大阪の自宅でも、小さな骨壺やメモリアルグッズなどで、手元に遺骨の一部を残せたらいいなと。
■ 家族と語りながら進めていく
お墓や供養の話って、なんとなく重くて話しづらいですよね。 でも、私は妻とも、少しずつこの話をするようになりました。 「うちは、どうしようか」「どこに入ろうか」「かい君の世代は、どうなるかな」
正解なんて、ありません。 でも、こうやって話していると、なんだか「供養」って、亡くなった人のためというよりも、生きている私たちのためのものなんだな、と思えてきます。
■ 私はまだ、迷っています
私は、葬祭ディレクターとしてたくさんの人の最期を見送ってきました。 その経験から、「自分にとっての終活」も、きっと誰かの『正解』の形とは違うものになるのだろうと、心の底からそう感じています。
遠くのお墓も大切です。 でも、身近にある想い出や、今の家族と一緒に過ごす日々も、同じくらい大切。
私はまだ迷っています。 でも、迷いながらでも、家族と話し合いながら、自分なりの供養の形を考えていけたら。 それがきっと、私にとっての終活なんだと思います。
■ まとめ:供養とは、生きる私たちのためのもの
供養は「こうしなければいけない」というものではありません。 大切なのは、気持ちがこもっているかどうか。
遠いお墓でも、身近なミニ骨壺でも、それが「想いのこもった場所」であるなら、十分に供養としての意味を持つのだと思います。
どうか、「正解」を探すのではなく、自分や家族にとっての「納得のいく形」を見つけてください。
■ アクションの提案
- まずは、家族と話してみましょう
- お茶を飲みながら、「うちって、お墓どうする?」と気軽に聞いてみるだけでも、立派な第一歩です。
- もし、まだ話しづらいなら…
- エンディングノートに、自分の考えを書いてみましょう。
- 書くことで気持ちが整理され、家族もその想いを受け取りやすくなります。
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